湯治のススメ

和に入り、自然に浴す

真夏の季節であれば、まだ明るい夕方に一ッ風呂浴び、縁側にでも座って風に涼みながら、シュクワッと、冷えたビールをあけるというのは、まるで極楽浄土を覚えるがごとき。

ひぐらしが鳴いているとか、縁側ではなくてヴェランダだとか、あるいはビールをやめてスイカをシャリリと齧るとか、後ろのシチュエーションはどんな風にしても良いのだけれど、ここだけは抜きにしては語れない、他に替えられないのが「風呂」のところで、それがないことにはなかなか、極楽まではゆくことができない。いわば、湯浴びは彼岸に渡るための、重要な儀式とでもいうものだろうか。

儀式―――それはあながち大げさな形容でもなくて、そもそも日本人の入浴習慣は「禊(みそぎ)」を起源としている。水で心身をあらい清めるという沐浴習慣が、温浴の形になるのは仏教伝来に伴われるものだそうで、寺には仏事の前にけがれを落とすための「浴堂」が造られ、金堂、講堂に並ぶ重要な施設となっていた。
また参詣者のためにも大湯室が設けられ、これがのちの、銭湯や大浴場といったものの祖となる。

今でも、入浴は体の外や内の汚れや垢をおとして、蘇生の心地を得るものにちがいなく、信心の有る無し、大小に関わらず、われわれが「禊」という清めごとを日課にして暮らしていることに変わりがない。
日本人はきれい好きと呼ばれるけれど、日本の神様がきれい好きだったから、お気に召すため自然とそうならざるを得なかった、というのがじつのところなのかもしれない。
またそうやって眺めれば、日本人の入浴習慣というのは、ひろく大衆まで、そして時代をこえて現代まで、普遍的に浸透することのできた、独自の宗教儀礼であると言うことができるかもしれない。
それにしても―――。

風呂あがりに一言、「極楽々々」。

わがDNAに、いかに連綿と刻まれ続けた悠久のセリフであることか。

さて、話はすこし飛ぶが、さまざまな分野で自然の力が見直され、自然を活かす、また生かすことが、大勢で考えられるようになったのは、たいへん嬉しいご時勢である。ただ、この「自然」という言葉、あんまり多用されると、一体なにをもって自然と定義しているのだか、時々わからなくなってくる。

そんな中、どこかすみわけを主張するように用いられる同義語に、「天然」という言葉があるが、実はこの天然とよぶのが最もよくあたるのは、温泉なのではないかと思ったりもするのである。

温泉というのは、99%が雨水などの循環水で、残りの1%が、地球内部のマグマから初めて地表に出る水分、処女水から成っている。

処女水とは、なんともロマンティックな名前である。いわばこの星の体液であり、母なるガイアの羊水とでも呼び直してみれば、そこに地上の生き物を育むべき豊富なミネラルや、傷や病を治癒する力が具えられているのも当然の生理と思えてくる。

そして生物が持つ自然治癒力に相応する、地球のホメオスタシス機能が、わずか1%の中にでもエキスとなって湯へ溶け込んでいるのだとしたら、湯治で癌が消えたといった数々の奇跡も、少しも不思議な話に聞こえなくなってくる。

天然に度合いなどないはずだけれど、こんな風にして温泉の天然度は、天然果汁とか天然記念物とかに使われるものと、ちょっとケタが違う。処女水に限れば、どうさかのぼっても、人為の加わる歴史は見つからない。

「天然温泉」

温泉地に行って、わざわざこんな風に書かれた看板を見つけたりすると、興ざめというか、天然じゃない温泉とはどういうものかと、かえって訝る気持ちにさえなるけれども、まさしく「天然」は温泉のための枕詞であり、この看板も、あしからず、実に正しい表現だったわけである。

こうして考えると、日本人の民族性からいう自然さにおいても、また天体とその上に暮らす生命にとって無理、矛盾のない自然さという意味合いにおいても、温泉に入るというのは、われわれにとって最適至高の「自然浴」と言い然りしもの。

そして民族性という点で忘れてはならないのは、この島国が根源的に持っている地形や地質といった財産で、北から南まで無数に温泉が涌くという特権である。

そんな日本人が、外国のミネラルウォーターをせっせと飲むのだから、考えても見ればまったく灯台下暗しというものでもある。
飲泉という、温泉水を飲む古くからの習慣こそが、スーパーミネラルウォーターを飲む、そして自然の力を直接体にいただく、極上の方法なのかもしれない。

和人流自然浴――温泉の文化とも科学とも神秘とも呼べるものに惹かれ、そこから日本人や自然の力といったものを眺めるような付き合いがはじまって、とりあえずそんな結論に辿り着いた。

正直、二十代半ば頃まで、私は共同浴場が大の苦手で、家でも家族が使った湯には入らないくらいだったから、温泉なんてよほどのことがない限り、行くことも入ることもしなかった。
たいがいのことは大ざっぱなのに、へんに神経質なところがあり、誰かが入った湯だというだけで汚れる感じがして気持ち悪く、体中が痒くなってしまうのである。
けっして潔癖というわけではないのだけれど、痒がっているうちに、ポツポツと赤い湿疹まで浮かびあがってしまうのであった。

そんな私にはじめて温泉のすばらしさを覚えさせ、その後も温泉について考えることを手伝ってくれたのが、東鳴子温泉の旅館大沼さんである。

今でも浴場は得意というほどではないし、温泉ならどこでも良いというわけにもゆかないけれど、ものごと苦手なことについては、しばしば大きな意味や縁があるもので、温泉は気持ちがいいと、一筋縄に納得が行かない分、あちこちから眺めたり感じたりを必要とし、また少しでも手にする感触があったなら、それは事件にも近い重さで心を離れなくもなる。

温泉についての思索の途中、たまに温泉が面白いのか、旅館大沼が興味深いのか分からなくなることがあったけれども、ここまで話してきたような温泉観は、みな大沼さんのところでまず肌に覚え、実感してきたものばかりであった。

わざわざ、こんな仰々しく書きたてるまでもなく、どうぞ一度鳴子へ行ってお湯をいただいてみてくださいと言えば、一等早く、また確かに違いないのだけれど、逆に私のような七面倒が無い人の方がほとんどだと思うので、ぜひこんなこと、頭の片隅にでも置きながら、温泉を楽しみ直してみてほしいと願われたりもするのである。

旅館大沼と言えば、裏山の母里の湯のことをまずはじめに紹介しなければならないだろう。
この貸切りで提供される露天風呂、通称「やまのおふろ」は、四季折々の木々や花の彩り、鳥や虫の声、また日や雨、風や雪などのさやけき匂いまで一人占めに浴し、まるで自分もその自然の一部と化すような深い安らぎに浸れる自然浴場である。
合間にのぞく陸羽東線の走る姿も、音も、決して自然に反することはない。むしろ、そんな人間の営みというのがひどく愛おしく感じられてくる。

日本人にはもともと縮景という美学があり、西洋と異なって、自然と人間を対立して考えることをせず、対等の意識や感覚によってその文化を築いてきた。
人工物も、自然と対立させるというよりも、それらに心や魂をこめたり、いのちを感じたりするし、また自然を加工することによって新たないのちを引き出し、よりよく生かすことに価値観と高い技術をもつ民族でもある。

たとえばやまのおふろも、電車が走る景色、あるいは露天風呂自体の建築や、隣接の茶室、山荘など、それらすべてを含めて自然と感じ、そこへ浴する心地よさを得られるのは、たぶんに大沼さんの和人らしい自然との共生感に拠るものだろうし、そういう心に自然の側も共鳴しているさまを、湯音の中に聴きとることができるように思えるのである。

旅館大沼では「感謝」という言葉を、よく目に、耳にする。湯を賜ること、人との出会いを得ること、元気であるということ…ひとつ、ひとつに深い感謝がある。
きっとこれが大沼さんの自然観を一言に凝縮するものに違いなく、だからここの自然は幸せな顔をしているのだと、明快な納得を得る気分がする。

なんでもそうだろうけれど、温泉もそれを守る土地や旅館によって見せる顔が違ってくるもの。そして、そうやって人間と自然は和するもの。
それは日本人の細胞に染みついた自然観に違いなく、またそのことを、大沼さんの温泉はもったいぶることなく、すんなりと肌から染み込むようにして、教えてくれる気がするのである。

それにこのように自然と和すという感覚は、精神的なものばかりではない。温泉の場合、むしろ一義的には身体的な感覚のほうが優先的でもあるし、説得力もある。
温泉は、人の体を天然のリズムに帰してくれる。それは、そんな気がするというような気分的なものではなく、ある意味はっきりと体感として覚えられることである。

ある日私は、大沼さんのところではじめて「湯あたり」を体験した。滞在二日目、昼過ぎから眠くて眠くて、どうにも動けない体となってしまった。ひたすら眠たく、布団から起き上がれず、食事が運ばれてきた時だけ、どうにか目を開けるといった具合である。風呂に入る力さえない。

一応温泉療法については勉強して、医学的な湯の浴び方は知っているつもりだったし、それにならって、いく度も、長時間、湯に入るような禁忌もおかしていなかった。はて…と、あまりの体の異変に首を傾げたが、これが「湯あたり」であった。

「湯あたり」とは、湯治をおこなう際、一般的には五日か一週間ほどで現れるという体の調律作業のことで、いわば蝶が、さなぎになって新しい体をつくるような状態である。これを抜けると、蝶のように羽こそ生えないが、体は生まれ変わったように軽く、自由で力強いものにかわる。さなぎとなった間に、まるで要らない荷物を下ろし、必要な糧を蓄えるような感じである。

実際、体内の細胞は、悪玉を消し、善玉を増やすという変化を起こしているのだが、それを目に見て知ることができないわれわれに分かるのは、ちょうど体がリセットされるような感覚で、私の場合、あくる日の朝は爽快に醒めた気分で、動けなかった体はうそのように軽くなり、蘇生を実感する思いであった。

それは、地球の処女水を含む、温泉の力の大きさを思い知らされるばかりでなく、自分がまさしく自然の一部なのだということを、鮮やかなリアリティをもって思いださせるものでもあった。

そして鳴子の、また大沼さんの自然やお湯に、こちらへ語りかけ、近寄ってきてくれるような愛情を感じてきたが、その優しさの実在を、身をもって体験した気がするものでもあった。

ふと、口からこぼれて言いたくなる。

和に入り、自然に浴し
自然を浴して、和を為す

わが温泉観の要約とでも言うものだろうか。

▲メニューへ