私は昭和37年、こけしで有名な鳴子温泉郷・東鳴子で代々湯治宿を営む「旅館大沼」の五代目として生を受けました。私の小さい頃の記憶はやはり、館内が湯治客でにぎわっていた風景です。日本も戦後の高度成長期でとても元気のいい時代でした。普段、漁業や農業に従事して過酷な労働をしている日常から離れ、温泉につかってひとときの息抜きをする。彼らにとっては湯治場にきて湯治をするのが当時なによりもの贅沢な楽しみだったかもしれません。その頃は部屋のしきりは壁ではなく障子でしきられ、がらりと開ければすぐお隣さん。小さな部屋でもあっというまに大部屋に変身です。昼間から自分たちがこしらえた郷土色豊かなおかずでもう宴会が始まります。あちこちで湧きあがる笑い声。手拍子での歌の合唱。それはそれは賑やかでした。夜になれば障子に影として映し出されるその光景が見たくて、指を舐めて濡らし障子に穴をあけてのぞいたりもしました。子供は子供で館内を駆け回り、私もお客様の子供も一緒になって運動会です。薄暗い布団部屋を基地とした戦争ごっこは今でも思い出すとわくわくします。子供のことですから、けんかも日常茶飯事で、私などはお客様の子供をしょっちゅう泣かし、そのたびに親が謝っていました。お風呂はもちろん混浴で朗々と自慢ののどを民謡にのせて披露するお客様がおり、町中にその歌が響き渡ります。また湯気に隠れるように、そのかたわらで目をつむり自分の体を治すため一心に入浴する人の姿も印象的でした。湯治全盛の時代、湯治場には今のカタチだけをまねたテーマパークやリゾートなどでは決して得る事のできない、人間同士が創りだす喜びが満ち溢れていました。そしてそこでは、その人それぞれのゆったりした時間が流れ、温泉に集う人々が真に豊かな空間を共有していたのです。